東京外国語大学建学150周年記念式典を挙行
2023.10.31
東京外国語大学は今年、建学150周年を迎えました。
2023年10月28日(土)、建学150周年を記念して、アゴラ?グローバル プロメテウス?ホールで記念式典を挙行しました。
本学卒業生、名誉教授や本学退職者のほか、教育関係者や自治体関係者など約260人が出席しました。林佳世子学長が、「東京外国語大学は、日本と世界における共生への寄与のためにある。建学から150年を経て一つの区切りを通過するが、これからも、さらに、そこにむけてその道を、大切に歩んでいきたい」と式辞。大阪大学の西尾章治郎総長と東京外語会の寺田朗子理事長が祝辞を述べました。また、世界30地域の協定校関係の方からのビデオメッセージが披露されました。
その後の記念講演では、本学出身のジャーナリストによる対談企画が行われ、ウクルインフォルム通信(ウクライナ)編集者の平野高志氏(2004年外国語学部ロシア語卒)とNHKニュースウオッチ9キャスターで記者主幹の田中正良氏(1992年外国語学部中国語卒)が登壇しました。中山俊秀副学長が司会を務め、平野氏はウクライナのキーウからオンラインで参加しました。田中氏から平野氏へのインタビューのなかで、ロシア軍によるウクライナ侵攻から今までの状況、人々の暮らし、ウクライナに暮らす日本人として感じることなどが話され、それぞれの経験から世界とどう向き合っていくか、本学での学びを通して得られた精神や知識がどのように生かされてきたかが語られました。平野氏は本学での経験が現場の声を大切にすることの理解につながっていると述べ、田中氏も本学での言語と文化への造詣が力となっていると述べました。
式典では、混成合唱団コール?ソレイユによる大学歌合唱、チアリーディング部RAMSや管弦楽団による合同演技も披露されました。
学長式辞
本日は、お忙しいなか、東京外国語大学の150周年記念式典にご参加いただき、ありがとうございます。大学を代表し、ご列席の皆さまに心より御礼申し上げます。
さて、本学は、1873年の建学から、今年で150年を迎えました。ご存知のように、ここ何年か、150周年の声はあちこちから聞こえてまいります。いうまでもなく、これは、明治維新から数年を経て、近代化のなかで新たな組織や制度が多数生まれ、そうした組織や制度が続々と150年を迎えていることを示しています。その観点からいうと、本学の150周年は、日本における外国語教育の150周年、あるいは、日本における本格的な欧米文化の受容の150周年、という意味ももつと思います。
こうした本学の歴史は、お手元にお配りいたしました、本学文書館の編集によります、「東京外国語大学150年のあゆみ」という刊行物に述べられています。詳しくはそちらをご覧いただきたく存じますが、ここでは、ごく簡単に歴史のハイライトをお話しさせていただきます。
まず、本学の由来です。さかのぼれば、江戸時代末期に作られた蕃所調所を起源とする、とされていますが、正式の教育機関として発足したのは、今から150年前の1873年のことです。これは、外務省所轄語学所と東京大学の祖となる開成学校の一部を統合する形で生まれたもので、東京外国語学校と名づけられました。目的は通訳者の養成と上級学校進学者への語学教育に置かれ、英語学236人、ドイツ学96人、フランス学75人、中国学32人、ロシア学14人、という学生数でスタートしたといわれています。
ただ、それから12年を経て、1885年になりますと、東京外国語学校は東京商業学校に統合され、翌年には、外国語部分が廃止になってしまいます。これに抗議して、長谷川辰之助、のちのロシア文学者、二葉亭四迷が退学した、というようなエピソードが残っています。しかし、この廃校から11年を経て、日清戦争などの対外関係を契機に、1897年に商業学校のなかに再び附属外国語学校が設置されました。そして、その2年後に東京外国語学校として独立し、商業学校とたもとを分かつことになりました。独立後の東京外国語学校では、外国語だけでなく、地域の歴史?地理?文学、また国際法、経済学、教育学などが教授されることとなり、現在の東京外国語大学につながる骨格ができあがりました。こういうわけで、本学の当初の歴史は、明治初期の学校制度の変遷のなかで翻弄されました。いま申し上げましたように、特に高等商業学校、今の一橋大学とは、ちょっと深い因縁をもっておりますが、150年を経て、今は、東京工業大学、東京医科歯科大学とともに、4大学連合の構成員として、近しくお付き合いさせていただいております。
さて、外国の事柄を学ぶために創られた東京外国語学校ですから、その歴史は、日本の海外進出の歴史と深く結びついてまいります。日露戦争の際はロシア語通訳への需要が増し、夏休みを返上して特訓をしたうえで繰り上げ卒業をさせるなどし、200名以上が陸海軍の軍事通訳に当たったといわれています。日本の海外進出に合わせ、中国東北部のモンゴル語、東南アジアのマレー語やタイ語、インドのヒンディー語やタミル語が開設されていきます。一方、朝鮮語の学科は、日本の韓国併合により、廃止されました。陸海軍の委託生を受け入れる制度も設けられました。また、南米への移民の増加に合わせポルトガル語の教育がはじまったといわれています。このように、国の政策の影響を、直接受け、それに応えざるを得なかったのが戦前の東京外国語学校の姿ですが、その一方で、先ほどのロシア文学の二葉亭四迷や、詩人の中原中也のような文学者も、多く本学で学んでいます。おそらく、実学一本ではない、文化的な校風があったのだと伺えます。また、大杉栄のような政府に反対した思想家の母校でもありました。受験生の間での外国語学校の人気は高く、東京の盛況を受け、大阪にも、1921年に大阪外国語学校がつくられました。東西の外国語学校の間では、1924年にスポーツの東西対抗戦がはじまり、これは、大阪外国語大学が2007年に大阪大学と統合するまで続きました。
しかし、状況は厳しくなっていきます。第二次世界大戦の戦時下には、さらに東南アジアの諸言語に関する1年間の促成科が設けられるなどし、戦争の激化のなかで国策に奉仕せざるをえなかった様子が伺えます。学徒出陣などを含め、200名を超す戦没者を出したことも知られています。
こうした本学の戦前?戦中の歴史への反省は、戦後、新制大学として再出発した東京外国語大学における「平和を希求する」「世界と日本の平和に貢献する」という大学を貫く理念のなかに、生きていくことになります。外国の言葉を学び、世界に友を作り、日本と世界をつないでいく、という戦後の本学の姿勢は、戦前の本学との対比のなかで、際立っています。
新制大学としての東京外国語大学の歴史は、他の国立大学と同じく、今年で74年目となります。発足以来、2012年までは、外国語学部1学部の単科大学でした。ここ府中への移転は2000年ですので、今日ご列席の卒業生の皆さんは、北区西ヶ原キャンパスにあった外国語学部卒業、という方が多いかと思います。卒業生の方々とお目にかかるたたびに、学生時代はあまり勉強しなかった、といわれる方が多いので、これはどういうことだろうといつも思っておりましたが、「勉強に励んだ」などとケイケイにいわない、バンカラな校風を反映しているのだろうと思います。実際、世界に友を求めた本学の卒業生の進路は世界に広がっていきました。卒業後、多くの皆さんが世界で活躍され、戦後の日本の発展、高度成長の時代を支えてこられました。
こうした中、1964年のアジア?アフリカ言語文化研究所の本学への設置は、日本の人文社会系分野の研究の展開の中で大きな出来事でした。アフリカの年、とも呼ばれた1960年を一つの頂点に、アジア?アフリカ諸国への関心が高まったことが背景にあります。日本学術会議の提言を受け、人文系初の共同利用研究機関として本学にアジア?アフリカ言語文化研究所が設置されたことは、本学の研究力の飛躍に繋がりました。
また、戦後の補償の一環としての文部省によるアジアからの国費留学生受け入れがはじまり、受け入れた各国からの留学生への日本語教育は、本学が担当することになりました。この事業は、やがて、外国語学部付属日本語学校、留学生日本語教育センターの事業へと発展していきました。日本語教育は、現在、本学の重要な研究、実践分野となっています。
外国語学部のカバーする言語?地域の拡大は、世界各地と日本との関係の深化に関係するものでした。南北アメリカ、ヨーロッパ、東アジアを中心とする地域から、やがて東南アジア全域、南アジア、中東、中央アジア、オセアニア、アフリカと全世界に広がっていきました。現在は、28の専攻言語を含む、80を超える言語とその地域についての教育を行っています。2012年には、外国語学部を改組し、言語文化学部、国際社会学部の2学部体制となりました。これにより、何が学べるのかが明確化し、また、外国語大学という名称の印象からくる、「外国語だけの大学」というイメージが少なくとも学部の名称からは払しょくされました。さらに2019年には国際日本学部が設置されました。大学院教育も、総合国際学研究科での修士、博士の教育体制へと発展しています。多摩地区の東京農工大学、電通大学との結びつきも深まり、大学院博士課程に共同専攻が生まれています。
ただ、世界を友とし、世界と日本の平和に貢献する、という本学の理念に反し、今、世界が置かれている状況は、直視に堪えないほど、つらいものがあります。いつかは世界がひとつになるプロセスのなかで、途方もなく大きな分断が発生しているのかもしれません。一つになる前に、人間社会は崩壊してしまうかもしれない、という危惧すら覚えます。ミャンマーの問題、アフガニスタンやスーダンの問題、ウクライナの問題、そしてパレスチナの問題など、数え切れません。
しかし、私たちの大学が育てる人材は、ハマースやイスラエルの政治家の視点ではなく、ガザに暮らす人々の目線で、ものを考える人です。あるいは、イスラエルに暮らす普通の人々と対話のできる人です。彼らのことば、文化、歴史的背景を知り、その論理を理解する人です。今も、多くの卒業生が、政府や国際機関、メディアやNGOの一員として、現場で働いています。複雑な現実のなかで、問題に解決をもたらすことはできないかもしれませんが、寄り添える、自分事として考える、そういう行動ができる人を育てる大学でありたいと願い、教職員一同、日々、努力をしている次第です。
ただ、こうした共感力をもった人々が必要なのは、なにも、世界の困難な場所にかぎられません。日本のなかでも、さまざまな言葉を母語とする多様な人々との共生が必要となっています。外国にルーツを持つ人々に、日本への同化を強いることなく、それぞれのことばや文化を維持したまま、日本のなかで共生していく道が求められています。その実現のために必要な人材は、本学から多数、巣立っており、今日、ここにいる学生の皆さんにも、おそらくそのような場での活躍が、今後ますます期待されていくものと思います。
これを一言でいうと、東京外国語大学は、日本と世界における共生への寄与のためにある、ということだろうと思います。建学から150年を経て一つの区切りを通過しますが、これからも、さらに、そこにむけてその道を、大切に歩んでいきたいと思います。
最後に、2014年にはじまった150周年基金にご協力いただきました皆様方に、こころより感謝を申し上げます。5億円をこえるご寄付をいただき、これにより、1つには、学生の大学生活の充実のため、運動場の人工芝化が実現できる運びとなりました。外語会の皆さんや運動各部のOB、OGの皆さんには特にご協力をいただき、ありがとうございました。また、このご寄付をもとに、2009年来つづけてまいりました、留学支援のための国際教育支援活動を今後も継続していけることになりました。特定目的の基金も含め、十分に精査の上、いただいたご寄付を活かし、未来につなげて行きたいと考えております。
本日は、ご参加いただき、本当にありがとうございます。皆さまの、ご健康とますますのご活躍を祈念し、ご挨拶とさせていただきます。
東京外国語大学長
林 佳世子