2017年度 活動日誌
3月 活動日誌
2018年4月1日
GJOコーディネーター 原 真咲
【新学期】
ウクライナでは、2月から後期学期が始まりました。3月は特にてらいもなく通常授業なのですが、その中で今学期からの新しいことというと、日本語を学ぶ1年生にもネイティヴの授業が行われようになりました(入学したばかりの前期はネイティヴとの授業は困難であるということから、1年生との授業は行われません)。1年生はまだ大勢の学生がいて名前を覚えるのも大変ですが、多くの学生が熱心に日本人との授業に取り組んでくれます。
【ロシアの圧力による休講とルネサンスの理想都市】
先月の日誌で書きましたように、新学期が始まって間もなく、ロシアのウクライナに対する圧力により、3月第二週は全学休講となってしまいました。授業がなくなったので、週末にリヴィウの近くの町を見学してきましたので、今回はその話をしたいと思います。
ウクライナにはかつて、多くの城郭都市が存在しました。リヴィウもそのひとつなのですが、多くの都市はその後衰退して村に落ちぶれるか、逆に発展して元の城郭が破壊され、いずれにしても原型を留めていません。そんな中、リヴィウ州ジョーウクワ市(Жовква)は今日まで立派にルネサンス時代の「理想都市」の形を残している稀な例であると言えるでしょう。
16世紀には、ウクライナの諸侯は西欧文明を摂取するため、挙って子弟を留学させるようになります。特に、ルネサンス文化の花開いたイタリア、オランダ、ドイツ諸邦は好んで留学先に選ばれました。その中で、トマス?モアやカンパネッラの理想都市論に触発された彼らは、ウクライナ各地にそれぞれの「理想都市」を作ろうとします。ジョーウクワ市は、そうした潮流の中で生まれた「理想都市」でした。ジョーウクワはポーランド語名では「ジュウキェフ」(?ó?kiew)と言いますが、これは都市の創設者、スタニスワフ?ジュウキェフスキ(Stanis?aw ?ó?kiewski, 1547–1620)に由来します。ジュウキェフスキは、イタリア人建築家たちを招き、自らの「理想都市」を具現化しました。元々あったヴィーンネィケィ村(現在はジョーウクワ市の一部)の辺りに、「理想の人体バランス」を模して幾何学的平面形を持つ城壁が新たに築かれ、城館、教会、役場、イタリア風の歩廊(アーケード)付住宅(すぐ商店街となった)など主要な建築物が計画的に配置されました。城の裏手には、ルネサンス庭園が造られました。この都市では、様々な民族や宗派の人々が調和的に共存する理想の世界の構築が目指されました。一方で、外敵の侵入に耐えるため、堅固な稜堡式城郭としての機能も備えました。城の背後はスヴィニャー川によって守られ、他の辺には水堀が掘られました。さらに、城壁の周囲には多くの稜堡が設置され、防御のための塔も建てられました。各教会は祈りの場となると同時に、分厚い壁と塀に囲われた防御施設としての機能も持たされました。城壁は大砲や鉄砲で武装が施されました。
ポーランド=リトアニア共和国が分割されて滅亡すると、ジョーウクワはオーストリア帝国の領土となります。第一次世界大戦後は、西ウクライナ人民共和国、ポーランド共和国領となりました。
1941年まで、ウクライナ人、ポーランド人、そして多くのユダヤ人が暮らしていましたが、ソ連軍が侵攻すると多くのウクライナ人住民が虐殺され、その後ナチスに占領されるとユダヤ人の多くが虐殺されるか、逃亡を余儀なくされました。このとき、ユダヤ人を匿った町民の史料が新市庁舎の博物館に展示されています。結局、ジョーウクワにいて生き残ることのできたユダヤ人は、70人程度だけであったといいます。1940年代には、ウクライナの独立派とソ連軍とのあいだで熾烈な戦いが行われました。特に、1945年3月22日には、ジョーウクワ郊外でウクライナ蜂起軍(UPA)とソ連の秘密警察(NKVD)の部隊との戦闘が生じ、UPAが勝利しました。しかし、衆寡敵せず、ウクライナの独立は頓挫しました。
ソ連に併合されると、1951年、ポーランドの英雄の名を冠した町の名はロシアの英雄ピョートル?ネステーロフ(帝政ロシアの飛行士)の名に改称され、ネステーロフ(ウクライナ語でネステーリウ)となりました。ウクライナの独立により、歴史的な名称に戻されました。
今日、町には驚くほどの南国風情があり、イタリアの小都市に来たかのような印象を受けます(同時に、小ポーランド地方の地方都市にも似た雰囲気もあります)。
ジョーウクワ城は、正面は綺麗に補修されているものの、中庭側と川側は修復予算が尽きて半ば荒廃した状態となっております。今後、修復工事が予定されているという報道が昨年末頃ありました。この城と新市庁舎は博物館となっています。ちなみに、市庁舎の存在は、この町がかつて自由都市であったことを物語っており、市民社会も古くから発展していたことが伺えます。教会は観光向けにはあまり機能しておらず、見学できるのは決まった時間(張り紙があります)のミサの時間の前後のみです。また、多くの教会は館内の撮影が禁止されています(お願いすると撮影させてもらえる場合があり、お礼に寄進しました)。
ジョーウクワはルネサンス様式の都市ですが、ローマ=カトリック教会の聖ラウレンティウス教会では内陣天上にマニエリスム様式の装飾を見ることができます。また、地下墓所にジュウキェフスキの棺が収められています。現在ウクライナ?ギリシャ=カトリック教会の管轄となっている聖心教会では、リヴィウ州出身の画家ユリアーン?ブツマニュークによる美しいステンドガラスや壁画を見ることができます。ヨーロッパ最大規模を誇るシナゴーグは、地上高を抑えつつ最大限の内部空間を確保するため半地下造りとなっています。
【町の所有者】
町を建設したスタニスワフ?ジュウキェフスキは、16~17世紀にヨーロッパに冠たる強国であったポーランド=リトアニア共和国の最盛期における、ポーランドの国民的英雄です。ジュウキェフスキ家は、祖先が正教徒であったこと、ルーシ人(ウクライナ人)の多く居住する地域の出身であったことから、ルーシ(ウクライナ)系ポーランド士族と考えられています(共和国では民族と宗教を一致させて考えていたので、正教徒ならばルーシ人、ということになります)。17世紀初頭には、ウクライナ各地に跨る領地を知行する大名として知られました(ちなみに、ウクライナの成田空港こと、ボレィースピリ空港の辺りも彼の所領でした)。ジュウキェフスキについては、後段でもう少し話をしましょう。
ジュウキェフスキ家の断絶後は、婚姻関係により、ウクライナ系の別の大名、ダネィローヴィチ家、ソビェスキ家の所領となりました。第二次ウィーン包囲で活躍するポーランド王、ヤン3世ソビェスキ(Jan III Sobieski, 1629–96)の育った町としても知られています(ジョーウクワには、彼の兄の心臓の収められた聖ヨサファート教会があります)。
ジョーウクワの「郷土の英雄」はこのスタニスワフ?ジュウキェフスキとヤン?ソビェスキですが、もう一人、名前を挙げることができます。ウクライナ史上不出生の英雄とみなされる、ウクライナ?コサックの将軍、ボフダーン?フメリネィーツィケィイ(Богдан Хмельницький, 1595–1657)です。ウクライナ独立運動の指導者として知られる彼の生まれはジョーウクワである、というのです。彼の出生地については諸説ありますが、ただ、彼の父メィハーイロ?フメリネィーツィケィイはジョーウクワでジュウキェフスキに仕えた士族であって、ボフダーンの生年がちょうど父のジョーウクワ滞在の時期に当たるというのが、この説の最大の利点でしょう。その後、ジュウキェフスキの娘がイワーン?ダネィローヴィチに嫁いだ際にフメリネィーツィケィイもダネィローヴィチ家に移りますが、その長年の奉公に報いてスーボティウに恩地を下賜されます(この領地を無法に取り上げられたことが、共和国を揺るがす大乱、1648年のフメリネィーツィケィイの乱の原因となります)。
【英雄スタニスワフ?ジュウキェフスキ】
スタニスワフ?ジュウキェフスキは、リヴィウ城代、キエフ守護、ポーランド軍元帥である王冠領大将軍など、ポーランド王国の重要な官職を歴任しました。彼の関わった歴史的事件の中で特に有名なのは、ウクライナ史においてはナレィワーイコの乱(1594–96)の鎮圧でしょう。ウクライナ文学では、彼は、ウクライナの英雄、セヴェレィーン?ナレィワーイコの好敵手として、政府軍の側の英雄として登場します。また、フメリネィーツィケィイや、ウクライナ民謡の主人公としても知られるステーファン?フメレーツィケィイなど、多くのウクライナ人士族が彼のもとで軍学を学びました。ポーランドやロシアの歴史を学ぶ人に馴染み深いと思われるのは、1610年のクルシノの戦いですね。これは、ロシア史で「動乱時代」と呼ばれる時期に起こった合戦です。ジュウキェフスキ率いる共和国軍は、ドミートリイ?シューイスキイ公およびヤコブ?デ?ラ?ガルディの指揮するモスクワ?スウェーデン同盟軍を撃破し、ポーランド=リトアニアの名を天下に知らしめました。このとき、彼が主力として用いた驃騎兵(フサリア)は輝く銀色の甲冑に身を包み背に翼を生やした独特の姿で知られ、後年の第二次ウィーン包囲での活躍と合わせて、「無敵のポーランド騎兵」の象徴となりました。モスクワのツァーリ、ヴァシーリイ4世はこの大敗北により退位を余儀なくされ、ジュウキェフスキによってワルシャワへ連行されます。モスクワに入城した共和国軍は、ポーランド王子を迎えます。
ジュウキェフスキはまた、その壮絶な最後で知られます。1620年、ツェツォラにおけるオスマン帝国との戦いで共和国軍は壊滅し、ジュウキェフスキも大将軍として最後まで剣を振るって戦いましたが、奮戦虚しく討ち死にを遂げました。その首級はスルタンのもとへ送られ、槍に刺して都の大路を引き回されたとされています。後世、軍旗を守って孤軍奮戦するジュウキェフスキの絵画がいくつも書かれました。
彼の活躍は軍事面に留まらず文化活動にも及び、リヴィウではイエズス会コレギウムの開設者としても知られます(このコレギウムではボフダーン?フメリネィーツィケィイやヤレーマ?ヴィシュネヴェーツィケィイ公など、多くのウクライナ貴族やコサックの子弟が西欧の学問を学びました)。そして、彼の建てた「理想都市」ジョーウクワには、彼の理想を形作る多様な宗教の建築物が、彼の命(めい)により建造されています。すなわち、彼は自らの宗教であるローマ?カトリックの寺院(聖ラウレンティウス教会)のみならず、正教徒のための寺院(聖心教会、キリスト生誕修道院)、ユダヤ人のためにシナゴーグを建てさせました。こうした多くの宗派が融和的に一つの都市空間に居住することが、彼の目指すルネサンス都市の理想形だったのです。この理想を考えると、彼の生涯が実際には常に他宗派との戦いに傾けざるを得なかったことは残念な皮肉のように思われます。
【行き方】
リヴィウからは、バスや鉄道で簡単に行くことができます(ちなみに、グーグルマップではジョーウクワ駅はなんと「ネステーリウ=リヴィーウシケィイ」というソ連時代の名称で記載されています。そもそも、グーグルではウクライナ自体が「ウクライナ共和国」というソ連時代の名称で登録されていますね)。所要時間は、リヴィウ駅か中心部から1時間~1時間半程度と考えてよいでしょう(リヴィウの北バス駅から30分程度なので「リヴィウから30分!」と紹介されますが、実際には中心部から出掛けてバスに乗るまでに30分はかかります)。バスでもそれほど不快ではないです。鉄道は、ポーランドとの国境のラーワ=ルーシカまで普通列車のみ運行されていますが、車両は寝台車でしたので、寝ようと思えば寝られます。
2月 活動日誌
2018年3月5日
GJOコーディネーター 原 真咲
【ロシアの圧力による新学期の混乱】
今年のウクライナの大学の多くは、例年より遅く2学期(ウクライナの大学は通常2学期制です)を始めました。というのは、暖房を節約するためだそうです。リヴィウ大学でも、2月最終週から後期日程が始まりました。ちょうど今年一番の冷え込みの時期に当たり、風邪を引く人続出です。
ところが、新学期が始まって間もなく、各教育機関に対して3月第二週の休校を命ずる大統領令が発せられました。これは、ロシアによるウクライナに対するガス供給停止措置を受けたもので、連日零下20度前後となる中、エネルギー不足による暖房停止という緊急事態を未然に防ぐためのものでした。その後、EU各国の協力により必要な燃料が確保されたことから教育省は通常授業の実施を通達しましたが、すでに週末となっており、全国から集まっている大学生の中には帰省してしまった者も少なからずいて(第二週には元々連休がありました)、突然授業を再開するのは困難であるとの判断から、結局多くの大学は最初の大統領令に基づき休講としたようです(地元の子どもたちが通う小学校~高校相当の学校は、通常授業となったようです)。リヴィウ大学もその例に漏れず、です。
2014年の開戦以来、ウクライナでは慢性的なエネルギー不足となっており、最近では一頃よりは改善しましたが、照明は非常に暗く(今は違いますが、以前数えたところ、特急列車の車内照明は7基に1基しか点灯していませんでした)、暖房も最低限のものとされていて、さらに外国人には目につかないようなところ(例えば工場の稼働率等)に影響が出ているのではないかと推測されます。東京都民としましては、2011年の春先の状況を少し思い出します(さすがに戦時中のことを思い起こすほど年ではありません)。今回の新学期の混乱もこうした文脈に位置づけられますが、いつか問題が解決する日が来るのでしょうか。
エネルギー問題が本格化するのは毎年冬のことであり、本学のサマースクールの行われる9月には幸い深刻な影響は生じないものと思われます。皆さんも《ほどほどに》暗いウクライナを体験してみて下さい。
1月 活動日誌
2018年2月5日
GJOコーディネーター 原 真咲
【リヴィウ大学への留学について】
今月はリヴィウ大学が冬休みのため、本学で留学についての説明会を行いました。今回は、こちらでも留学情報を提供したいと思います。
今年度より本学とリヴィウ大学とのあいだに協定が結ばれ、交換留学制度が開始しました。リヴィウ大学から本学へは年1名、本学からリヴィウ大学へは長期(1年間)の希望者がある場合は1名、長期希望者のない場合は短期(ショートビジット、9月実施、3週間コース)で3名が募集されます。2017年9月には、本学から最初の留学生3名がリヴィウへ派遣されました。また、リヴィウ大学から1名が目下本学に留学中です。
【留学条件?研修内容】
留学中の研修は、ウクライナ語の習得が主たる目的となります。留学までにウクライナ語の文字を習得しておく必要があります。対象学年については特に規定はなく、昨年は学部1、2年生、修士1年生が派遣されています。
短期ウクライナ語コースの講座内容は、今年度(2017年9月)の場合、午前は語学研修(ウクライナ語)、午後はその他の様々な講座(歴史?文学?民謡?言語学などの学術?教養講座、ウクライナ料理講座、伝統工芸の人形作り講座、市内や諸施設の案内など)が開設されました。
宿泊は、大学の寮が無償提供されます。渡航費や交通費、食費は各自負担になります。食費は、学食が最も安く、次いでファミリーレストランで1食当たり300~400円程度と考えてよいでしょう(品目や品数によります)。
また、昨年の留学生は週末を利用してキエフやオデーサへ小旅行を楽しんできたようです。
【ウクライナへの渡航】
ウクライナへは、日本国民ならば90日までビザなしで滞在ができます。特別な滞在登録も必要ありません。
日本からウクライナへの直行便は開設されていません。経路については、時期によって状況が変わりますので、留学が決まってからご相談下さい(深夜早朝の到着?出発は、寮~空港?駅間の交通手段が確保できない場合があるのでご注意下さい)。
【リヴィウの状況】
治安は、これまでのところ特に心配する状況にはないと言って良いでしょう。東の端にある前線(例えばマリウーポリ)からリヴィウまでは寝台急行列車で2昼夜かかるほど離れていることもあり、直にきな臭い雰囲気を感じることはないと思います。また、西ヨーロッパにおけるテロ事件の影響を心配される方もいると思いますが、今のところ、ウクライナにおける同種のテロ事件は報告されていません。
勿論、今の世の中どこにいても何が起こるか予想はできず、そうでなくとも、海外では自分の国にいるとき以上に注意をする必要はありますが、よほど不運でない限り、リヴィウで政治的原因による事件に巻き込まれる危険性は低いと思います。
治安状況としては、ウクライナ全体的に言えることですが、特別危険ということはありません。リヴィウは元々治安がよく、留学先としても観光地としても安心して滞在できる都市でした。海外旅行の際の常識的な注意点を守っていれば十分と思われます。また、警官が外国人を捕まえて賄賂を要求するといった、旧東側諸国にありがちな事案も特にありません。人種差別主義者による攻撃に遭う危険性も心配しなくてよいでしょう。
【学期予定】
リヴィウ大学は2学期制です。前期は9月から1月まで(その間に年末年始の休暇を含む)、後期は2月から6月中旬(その後7月まで実習期間)までとなっています。
長期休暇は、例年、冬休みが1月6日~2月8日、夏休みは7月15日~8月31日です。ただし、その年によって日程に変更の生じる場合があり、2018年は2月25日まで冬休みとなっております。
長期休暇期間中は大学は原則として閉鎖(施錠)されており、入構できません。
本年の研修期間は、恐らく、9月第一月曜から第三金曜までとなるのではないかと思われますが、まだ決定していません。
ウクライナの教育改革の関係で年間スケジュールやカリキュラムは毎年変更が加えられておりますので、本学のサマースクール以外の期間に訪問を考える際には、日程確認をした方がよいでしょう。
12月 活動日誌
2018年1月5日
GJOコーディネーター 原 真咲
【リヴィウ大学の日常③】
12月はしばしば雪が降りました。ただ、湿度の関係か、同じ気温であれば東京の方が寒く感じます。ウクライナの冬の本番は年明け以降です。
9月に学年が始まるリヴィウ大学では、12月前半に前期の授業が終わります。その後、試験期間があって冬休みになります。ウクライナでは、試験が3種類あります。一つは小テスト的なもので、コントローリナ?ロボータと呼ばれます。一方、12月に最初に行われる試験はザーリクと呼ばれるもので、これは合格か不合格かだけです。その後にあるのが本格的な試験(イースペィト)で、合否だけでなく点数がつきます。最低評価をもらった場合、退学となります(その前に何度か追試が受けられるなど、救済措置があります)。留年という制度は通常ありません。試験は、筆記だけでなく口頭のものも多いのが、日本の大学の試験と比べた場合の特徴と言えるでしょう。
ところで、大学予算の削減、インフレ、隣国による政治的圧力としての資源値上げなどの影響で光熱費が高騰しているのが原因だろうと思いますが、今年度はリヴィウ大学は省エネ、光熱費節約のため、後期の開始時期を遅らすという話があります。例年より2、3週間遅れて、2月末頃に始まるようです。と、1月初めの時点でまだはっきりわかっていないのですが。リヴィウ大学への訪問を考えている人は、ご注意下さい。冬休み中は大学は原則として完全閉鎖されていて、構内に入ることができません。
【コロメィーヤ市の日本イベント】
12月11日には、リヴィウ大学のオレスタ?ザブランナ先生とともに、隣のイワーノ=フランキーウシク州のコロメィーヤ市に出張してきました。これは、メィハーイロ?フルシェーウシケィイ記念コロメィーヤ?ギムナジウムと市教育委員会の招待によるもので、ギムナジウムと学校の生徒たちたちのための日本とリヴィウ大学の日本語専攻を紹介するイベントを行いました。ちょうど前日には、「日本の日」というイベントが開催されたそうですが(https://www.facebook.com/events/512904105760771/)、こちらには呼ばれていないので参加していません。我々のイベントに来てくれた人が、昨日こういうイベントがあったと教えてくれました。映画を見たり、折り紙を折ったり、料理を作ったりしたそうです。どちらも、日本国大使館の制定した「ウクライナにおける日本年」に因んで催されたイベントで、奇しくもこの2日間はコロメィーヤ市は日本で盛り上がったようです。
我々のイベントでは、日本の学校の様子について話をしました。それから生徒たちの質問を受けたのですが、ありきたりな質問でなく幅広い分野から具体的で細かい質問が多く出され、参加してくれた皆が日本に大いに興味を持っているということが伺われました。
【コロメィーヤ】
コロメィーヤはリヴィウよりも古い町で、その歴史と文化的水準とによって今日では「西ウクライナ第二の都市」と称しています(但し、人口の面では2017年11月1日付の統計で61018人で、州内で3番目となっています)。その名が歴史上に登場するのは1241年のことで、ハンガリーなど南方からの侵略を防ぐハーレィチ公国の要塞として建設されました。その後、20世紀までのあいだにルーシ王国、ポーランド王国、オーストリア=ハンガリー帝国の支配を受けました。
今回伺ったコロメィーヤ?ギムナジウム(http://www.kolgym.if.ua/)は早くからウクライナ語による教育を始めた歴史ある教育機関で、この地方出身の代表的作家であるワセィーリ?ステファーネィク(1871–1936)や、イワーン?フランコーの息子で教育者、独立戦争時の飛行隊隊長、スカウト組織「プラースト」の共同組織者としても知られるペトロー?フランコー(1890–1941)、歌『2つの色』で知られる(中井和夫『ウクライナ語入門』大学書林、1991年、112–113頁に掲載)現代ウクライナの詩人ドメィトロー?パウレィーチュコ(1929生)ら多くの著名人がこの学校で学びました。ギムナジウムでは、伝統に従って我々をバイオリンによる地元の音楽の演奏で迎えてくれました。
11月 活動日誌
2017年12月5日
GJOコーディネーター 原 真咲
【リヴィウ大学の日常②】
さて、リヴィウは雪も降って、底冷えするようになりました。カラスとカササギが、雪の中でも枯れた木々のあいだを元気に飛び回って餌を探しています。バシュラールという哲学者が暖炉のゆらめく焔を巡る様々な話を書いていますが、残念ながら当方にありますのはガス暖炉、風情も思想も吹っ飛ばす猛烈なガス噴射がジェット機に乗っているかのような音を轟かせ、青い焔を吹き出しています。光熱費もふっ飛ばしてくれるとよいのですが。
動植物にとっても厳しい季節となりましたが、人間にとっても厳しいことに変わりはありません。学生たちには病欠が増え、コーディネーターも大概風邪を引いていますが、今のところ授業支援を行っています。
先日の2年生の授業では、学生たちの家族について話をしました。すると、みんな4人家族で、大半の学生の弟が空手をやっているということがわかりました。空手はウクライナで随分人気のようです。本人たちはというと、誰もやっていないそうです。こちらも4人家族で、妹が空手をやっていたことがあり、例に漏れず自分ではやっておりませんので、なんとも奇遇です。学生たちの中には、お父さんが主夫という学生がいたり、学業のため親元を離れて姉妹だけで暮らしているという学生もいました。ウクライナの流行と、多用な家族模様を垣間見ることができたように思います。
12月は本格的な冬に向けて気候が厳しくなる時期ですが、最近は病気以外にも、いや学生にとってはむしろ病気以上の大敵かもしれない試験なるものが待ち構えておりまして、学生たちの中にはどうも顔色の優れない人がちらほらおります。12月初めには日本語能力試験があり、そのあとは大学の定期試験が山ほどあります。11月は試験前の前期最後の平常月でした。
10月 活動日誌
2017年11月5日
GJOコーディネーター 原 真咲
【リヴィウ大学の日常】
今月は、概ね日常的な授業期間であったと言えるでしょう。
リヴィウ大学の日本語専攻の学生には、毎日たくさんの授業があります。選択科目は少なく、多くは必修であると言っています。授業時間は、朝8時半から21時まで、8時間目まで設定されています。彼らはまた、日本語や日本文学だけでなく、文学部の学生に必修となっているウクライナ語の科目も履修しなければなりません。自分の国のことを知らずして、遠い外国のことだけ知ってなんとする、というわけです。
各学年ごとに担任の先生がいて、日本語の授業は担任の先生が受け持つことが多いです。それ以外に、日本文学の授業や教授法の授業があり、歴史の授業も少しだけあるようです(文学部、歴史学部、哲学部等はそれぞれ独立した別の学部です)。日本人の教師がいる場合、学生たちは会話をやりたがります。しかし、おしゃべりだけで時間を潰すのはよくないので、作文や筆記、講読などの授業をしています。会話は、そのなかで学べるでしょう。
学生たちを苦しめるのは、試験ですね。ウクライナの試験期間はとても長く、1ヶ月ほども続きます。試験形式は口述、つまり面接が多く、朝から晩までかかることもあります。
なかなか厳しい学生生活のように思われますが、真面目に勉強した学生は相当自由に日本語でコミュニケーションが取れるようになります。外大生も見習わなければなりませんね。リヴィウ近郊(鉄道で3時間程度)や遠い町から来ている学生も多いのですが、近郊の学生は週末には実家に帰る学生も少なくないようです。そのため、週末夕方の中距離列車は学生たちで賑わいます。列車で20時間以上もかかるような遠くから来ている学生は、長期休暇にしか帰省はできなそうです。ウクライナでは、家族を第一に考える人が多いと思います。
【日本語弁論大会】
今月は概ね日常的な授業期間だったのですが、1つだけ日本語の学生にとっては大きなイベントがありました。日本語弁論大会です。去年は初の地方開催としてリヴィウ大学で行われ、今年は首都キエフ(Kyiv)に戻っての開催となりました。リヴィウ大学からは、2名の学生(Iryna Maksymetsさん、Anastasiya Luhovaさん)が参加しました。
我々はこの日のために何度も練習やリハーサルと繰り返してきたのですが、練習しているうちにコーディネーターも日本語の発音がわからなくなる有様で、つくづく日本語のイントネーションというのは難しいなあと感じた次第です。
引率のオーリャ先生の話では、両名ともスピーチ、質疑応答ともによくできていたとのことでしたが、当人たちに聞いたら自分に対しては辛口の評価をしていました。結果は、アナスターシヤさんが特別賞を受賞しました。
なお、本大会の直前、ウクライナ東部の都市ハールキウ(Kharkiv)で愚かな「カーチェイス」の末の大事故がありました。車が歩道へ高速で突っ込んだ結果、多数の死傷者が出る悲惨な事故となり、そのなかに亡くなった親子がいたのですが、その方は日本語弁論大会への参加予定者だったとのことです。ご冥福をお祈り致します。
9月 活動日誌
2017年10月5日
GJOコーディネーター 原 真咲
【リヴィウ大学にGlobal Japan Officeが開所しました!】
今月、世界で13箇所目となるグローバル?ジャパン?オフィスが、イヴァン?フランコ記念リヴィウ国立大学に開設されました。2017年9月14日には開所式が執り行われ、東京外国語大学からは早津惠美子先生、前田和泉先生、福嶋千穂先生がお越しになり、リヴィウ大学からは副学長のマリーヤ?ズブレィーツィカ先生、文学部長のスウャトスラーウ?ペィレィプチューク先生、東洋学科長代行のオレスタ?ザブランナ先生をはじめとする先生方や学生たちが参加されました。また、本学からの留学生3名、そのほか来賓の皆様もご参加下さいました。
また、今年は最初の近代ウクライナ国家樹立からちょうど100周年の節目であるとともに、日宇国交樹立25周年の記念すべき年であり、これに合わせて在ウクライナ日本国大使館は「ウクライナにおける日本年」を設定しています。開所式は、この「ウクライナにおける日本年」事業に認定を受けています。
開所式に先立ち、早津先生による記念講義『単語の意味と文法的な性質―語彙的な意味?文法的な意味?カテゴリカルな意味―』が行われました。2年生から修士課程の学生まで、大勢の日本語専攻の学生が聴講しました。普段、日本の日本語専門家と触れ合う機会の乏しいリヴィウ大学の学生たちにとっては、本場の日本語学の講義を受け、専門家に自ら質問するという貴重な体験となりました。いつもの教室で、いつもと違う講義を聴く学生たちは、一段と生き生きとしていたように思われました。
開所式では、日本語専攻の修士課程で学んでいる2人の学生が司会を務めてくれました。2人とも、この日のためにヴィシワーンカという素敵な晴れ着を着てきてくれました。また、同じく修士課程で学んでいる学生(彼もヴィシワーンカです)がバイオリンによる素晴らしい演奏を披露してくれました。曲目は宮城道雄作曲の『春の海』です。早津先生、ズブレィーツィカ先生、ペィレィプチューク先生の祝辞がありました。ズブレィーツィカ先生の言葉によると、ウクライナ最古の大学であるリヴィウ大学に、最初のオフィスが開かれることは大変意義深いことである、とのことです(リヴィウ大学は1658年にウクライナとポーランド?リトアニア間に結ばれたハーデャチ合意に基づき、1661年に開校しました。ウクライナにはこれ以前にもオストローフやキエフに高等教育機関がありましたが、今日まで断絶せずに続いているのはリヴィウ大学が最古です)。
記念品の交換が行われたあと、学生たちから、東京外国語大学歌を歌うというサプライズがありました。我々とリヴィウ大学の学生たちは、この日のために秘密裏に練習を積んできたのです! 学生たちは少し緊張していましたが、本学の先生方に喜んでいただけたものと思います。伴奏はワセィーリさんのバイオリンの生演奏で、この日の大学歌は朝日町でも聴くことのできない素晴らしいバージョンではなかったでしょうか。その後、全員でリヴィウ大学の学生歌『ガウデアームス』を歌って式を終えました。
なお、開所式については本学ホームページ(/topics/gjo.html)のほか、リヴィウ大学のホームページでも記事が公開されており、多数の写真も掲載されています(http://www.lnu.edu.ua/en/a-representation-of-the-tokyo-university-of-foreign-studies-was-opened-at-lviv-university/, http://www.lnu.edu.ua/gallery/u-lvivskomu-universyteti-vidkryly-predstavnytstvo-tokijskoho-universytetu-inozemnyh-mov/)。
オフィスは、文学部ヤロスラーウ?ダシュケーヴィチ教授記念東洋学科日本語専攻の管理する教室に設置されています。そのため、普段は日本語の授業に活用されており、事務的な雰囲気のオフィスというよりは学生たちの活動の場となっています。
【東京外国語大学から留学生がやって来ました!】
今月のもう一つの重要なイベントは、東京外国語大学から初めての留学生が来たことです。記念すべき第1期生は、現在修士論文に取り組んでいる井伊裕子さん、学部でロシア語を学んでいる2年生の洲鎌里南さん、同じく1年生の田中春菜さんです。皆それぞれに異なる興味を持ってリヴィウを訪れたことと思いますが、充実した3週間を過ごすことができたことと思います。リヴィウ大学の先生やボランティアの方々がいろいろ考えてくれて、ウクライナ語の授業だけでなく、文化や歴史の講義、巻き人形作りやボルシチ作りのマスタークラス、ハレィチナー青少年創作センターのイベントの見学を提供してくれました。また、リヴィウ大学の学生たちも街の案内をしてくれました。
楽しい留学?出張期間はあっという間に過ぎてしまい、9月後半には先生、留学生が徐々に帰国してリヴィウも随分寂しくなりました。ところで、今回の一連のイベントのお蔭もあり、9月中頃のリヴィウの日本人人口は史上稀に見る増減を記録したことと思います。思えば、リヴィウにあるヤポーンシカ通り(つまり日本通り)にでも皆で行けばよかったかもしれません(この通りは、日露戦争における日本の勝利を記念して命名されています)。
【本の市場】
9月13~17日、リヴィウ大学のすぐ近くのポトツキ館とリヴィウ芸術館を主会場に、第24回出版社フォーラムが開催されました(http://bookforum.ua/)。ウクライナ全国の大小の出版社と、隣国ベラルーシやポーランドの出版社数社が出品しました。本学の先生や留学生も見学し、何かおもしろそうな本を購入したようです。この催しでは、普段リヴィウでは入手困難な地方の出版社の本が購入できたり、普段買える本でもより安く買うことができたりするので、本好きの人は両手に山ほど本を抱えて帰っていきます。そんなに買わなくても、あれほど多くの新品のウクライナ語の本が並んでいるのを見ると、ちょっと感動します。もしこの時期にリヴィウに来ることがありましたら、一度覗いてみるとよいでしょう。