前田和泉
ロシアは詩の国と言われる。「ロシア文学の父」プーシキンに始まり、20世紀初頭の「銀の時代」を経て、ノーベル文学賞詩人ヨシフ?ブロツキーに至るまで、いや、21世紀の現在もなお、綺羅星のごとく多彩な詩人たちがロシアでは輩出されてきた。そうした多士済々な面々の中でも群を抜く異才と目されるのが、革命的な言語実験と四次元的想像力を駆使した未来派詩人ヴェリミール?フレーブニコフ(1885-1922)である。「ザーウミ(超意味言語)」と呼ばれる特異な詩的言語を展開し、あるいは「時間の法則」を解明して超時間的な新時代を切り拓くことを夢見た彼は、時間と空間を超越する未来を夢想し続けた詩人だった。
さて、2025年4月より総合文化研究所長を拝命するにあたってふと私の脳裏に浮かんだのは、そのフレーブニコフのよく知られた次の詩だった。
あの場所へ、あの場所へ、
イザナミが
ペルーンにモノガタリを読み聞かせ、
エロスが上帝の膝に腰を下ろし、
神の禿頭の白い前髪が
さながら雪を、雪の塊を思わせるあの場所へ、
アムールがマア?エマにキスし、
天帝がインドラとおしゃべりし、
ユーノーとツィンテコアトルがコレッジョを眺め
ムリーリョに見とれているあの場所へ、
ウンクルンクルとトールが
頬杖をつきながら
仲良くチェスをし
アスタルテがホクサイに見とれている
あの場所へ、あの場所へ!
長詩『鎖を断つ我ら』の一節であり、また独立した作品としても読まれることの多いこの詩には、稀代の夢想家フレーブニコフが求め続けたユートピア的世界が描かれている。世界のさまざまな神々が集い、語らい合う「あの場所」は、まさに時空を超越した楽園と言えるだろう。ここでは日本神話のイザナミがスラヴ神話の雷神ペルーンに「モノガタリ」(原テクストでは日本語の「物語」をそのままロシア文字に翻字したмоногатариという単語が使われている)を読んで聞かせ、南アフリカ神話のウンクルンクルと北欧神話のトールが仲良くチェスに興じている。それだけではなく、神たちは人間界の画家たち―コレッジョやムリーリョ、そして葛飾北斎―に見とれている。つまりこの世界では、神々が人間を支配するのではなく、両者はまったくフラットな関係にある。
総合文化研究所というのは、まさしくこのような場所であるように私には思われる。ここにはさまざまな地域の、あるいは超域的な文化を研究する者たちが集い、それぞれのテーマを思い思いに追究している。この研究所の歴史を紡いできた偉大な先人たちや現所員の方々(それらの人々はみな私にとってはほとんど神にも等しい存在なのだが)は、専門とする地域や分野にかかわらず、ときに議論を闘わせ、ときに協働し、あるいは仲良く酒を酌み交わしてきた。本学出版会より刊行された『世界を食べよう』(沼野恭子編、2015年)、『地球の音楽』(山口裕之?橋本雄一編、2022年)、『地球の文学』(山口裕之編、2025年)は、まさにこの総合文化研究所という「楽園」を象徴するかのような本である(数多くの気まぐれな「神々」をまとめ上げて出版に漕ぎつけてくださった編者の方々には、この場を借りて深くお礼を申し上げたい)。
もちろん、昨今の大学が置かれた窮状の中にあって、本研究所も暢気な「楽園」でばかりはいられない。年を追うごとに「神々」の数は減り、残された者たちは疲弊の色を深めてゆく。そういえば、先述のフレーブニコフは革命後のロシアで放浪生活を続けた末、旅の途上で病に倒れて生涯を終えている。後に残されたのはぼろぼろの上着とトランク一つだけだったという。我々もまた同じ運命を辿るのかどうかはまさしく「神のみぞ知る」といったところだが、せめて「あの場所」を希求し続ける精神だけは失わずにいたい。少なくとも我らが総合文化研究所は、そのような夢想が許される場であってほしいと願っている。
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